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21世紀の身体と心のケア:心理療法を日常に活かす道
ドン・ハンロン・ジョンソン博士 2001/1/7
Introduction
本日こうしてみなさんの前でお話ができることを光栄に思うと同時に、とても謙虚な気持ちが湧いてきます。学校にも行かず本も読まずに人里離れた所に住みこの2世紀の間に起きたできごとを知らずに過ごしてきた者だけが、見知らぬ文化にやってきて、自分があたかも何か価値あるものを教えられる、などと思いあがれるのでしょう。みなさんの文化は古代からの美と癒しと精神性をたたえています。私は、若く粗雑な人々の国からやってきました。多くのアメリカ人と同じく、私の祖先もゴールドラッシュの時にカリフォルニアにやってきた農夫や、職人でした。私は親類の中で始めて大学に進学しました。
私たちの文化はつぎはぎ細工です。どこの文化でも同じように、ゆっくりと何世紀もかけて文化を形作り深みを手に入れようとしているところです。私はみなさんよりも遅れた世界から来た者だと感じながらこうしてみなさんに接しています。日本心理療法研究所の岩本さんがご招待下さり、またみなさんの古い歴史をもつ世界にとって、我々の若い文化でも何か価値のあるものをお渡しできるかもと思いながら、一体みなさんにあえて話をするようなことがあるのだろうか、そんな心配を抱いています。アメリカとみなさんの関係は、ちょうど子供に対する親のようなものでしょう。たとえ年をとり経験を重ねても、若さがもつ生き生きした表現からは、常に学ぶものがあります。というのも子供たちは伝統のしがらみから比較的自由であるために、思いもよらない新しいものを生み出し、凝り固まった大人の世界では許されないとんでもない考えを思いつきます。
日本文化の伝統がアメリカ特に心理療法の分野に与えた影響は多大なものがあります。明晰で静寂な心を育むことは、心理療法を実践する上でもっとも中心になる要素ですが、この日本では我々が達成したレベルをはるかに越えて、育まれその役割を担ってきました。細やかな美に払われる心配り、言葉にならない想像力や感受性を育てることは、アメリカの心理学者に深い衝撃を与えてきた古い日本文化の要素です。ですから、我々がここにやってくるのは、みなさんが受け継いできたものが与えてくれた豊かな贈り物に対するお返しのようなものです。日本心理療法研究所のすばらしい幕開けである今日のこの講演では、心理療法の特徴について述べたいと思います。心理療法を21世紀においていかにして成熟した人間になるかを学ぶために、必要不可欠とまでは言わないまでも、大切なものとして話をしていきたいと思います。
心理療法は、哲学、宗教、生医学をルーツとして20世紀に新たに生み出された独特のものです。しかし、この新しい実践とそのもとになった様々な実践と混同する過ちが広く行き渡ってきました。
宗教と哲学は生きていくうえでの困難に立ち向かうための最も古くからある方法です。ヨーロッパでもアジアでも歴史を通じて、宗教的な修行や哲学的反省は、人生の意味に取り組むための根本的な方法でした。昔から変わらず、魂の成長に欠かせないパワフルなものでした。けれども、私たちの今いる歴史のこの段階では、仏教、神道、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった古い伝統や、それよりもさらに古いシャーマニズムの伝統でさえも、人間が成長するうえで大切な領域に取り組むには相応しくないことが明かになってきました。そうした領域の一つが権威の問題です。絶対的で父権的な権威のあり方はあらゆる伝統に広がっています。日本で言えばオームの事件やサンフランシスコの「人民寺院」事件のような極端なカルトへとつながって行きます。精神的な理想の名の元で行なわれるそうした狂信的な行動は何もこの二つの事件だけでなく、長い歴史をもっています。
もっと日常的なレベルでいえば、そうした精神的な伝統は、たとえば結婚の問題で苦しんでいたり、しっかりした親になろうとする難しさを潜り抜けようとしている家族にとって、たいした助けにはなりませんでした。中毒や鬱症状、仕事仲間とのいざこざ、慢性病に取り組むといったよくある問題には、宗教的伝統は一般的な助けにはなりますが、心理学の分野で発展してきたような特別な助けはできませんでした。
精神医学は、心理療法のもっとも近しい親戚であり、客観的に定義づけられるものを診断することに基礎をおいています。ヨーロッパに始まりより長い歴史をもち、確立された生医学モデルの枠の中で発展してきました。生医学的な精神医学は人間意識の細胞レベルの機構についての数々の素晴らしい発見を活用しています。特に、病気の影響を改善する物質や精神病の生体レベルの起源を分析することにおいては、ずっと洗練されてきました。しかしながら、精神医学は個人の中で主観的とみなされるあらゆる側面を意図的にまたシステマティックにとり除くことで発展してきました。
生医学的な精神医学において研究される人間とは、客観化される物であり、たんなる物よりは複雑でユニークな生物学的システムとは言え、基本的に他の物と同列におかれる物体の一つにすぎません。
しかし、個人的な経験、夢、想像力、希望や絶望、意志の力、といった人間の世界は、その視野には入っていません。これらに比べ、心理療法は成人教育の一つの形としてその特徴を示すようになってきました。
数学や読み書きを学ぶのと同じように本質的なものとして、心理療法は、どんな大人でも直面する人生の挑戦をいかにして乗り切るかを学ぶためのものです。自分自身や他の人特に自分が愛する人々を大切にする、効率よく仕事ができるよう強い感情をコントロールする、良き親になる、中毒的な傾向に対処する、年をとったり病気になったり、死ぬ事に立ち向かう。といったことです。
みなさんご存知の通り、心理療法は19世紀末のウイーン、チューリッヒ、ベルリンに始まります。いわゆる精神病やスピリチュアルな歪みに加え、「日常生活の精神病理」がある、というのがジークムント・フロイトのラディカルで革命的な発見でした。夢や幻想、投影、思いこみ、といった無意識のプロセスの領域は、一見きちんとしていて社会的にも成功している、もっとも礼儀正しい人も含め、すべての人間の作り出すものの一部だと彼は気付きました。
そうしたプロセスがいつもチェックを受け、秩序だった社会のシステムの中で組織されると、大人は理性的な人であるように見えます。けれども、表面的なそうしたコントロールにも関わらず、中毒や理由のない恐怖感、怒りの爆発、自殺したいとか人を殺したいという気持ち、あるいは社会的なレベルでは、戦争や、拷問、他者とみなされる人々の集団への虐待、いやが応にも無意識は這い出てきます。
フロイトのラディカルな見方によれば、心理療法家は医者と言うよりは、荒野を歩くガイドであり、標識のほとんどない道に迷った人が自らの道を見つけ出す助けをし、ぼんやりとしか知られていない未知の領域にある岩をよじ登ります。心理療法は、大人になることを学ぶ、つまりフロイトの言葉によれば愛することと仕事をすることを学ぶことです。それは学校で学ぶすべての教科と同じように大切なものです。医学とカソリック教会が教育と治療を担っていた戦前のウイーンでは、この小さな考えがどれほどラディカルなものであったかをはっきりと認識することは難しいものでした。公に見とめられた行動から逸脱したものは、僧侶や医者の手によって宗教的あるいは医学的な戦略によって病気や罪深い行いとして、社会によって分類されていました。精神分析はこの新たなアプローチのユニークな重要性が分かるほど高い教育を受け、ウイーン、チューリッヒ、ロンドンへ旅できるだけの余裕のある数少ない人々の手にしか入らないものでした。
フロイトとカール・ユングの根本的な洞察は、若きアメリカにその落ち着き場所を見出しました。アメリカで心理療法という新しくユニークなものが独自のものとして繁栄したのです。我々はヨーロッパの古い医学、法律、宗教の組織に対して、疑いの目で見る下地が広く行き渡っているいました。新世界で強調されたのは、人々が集まり議論する自由でした。タウンミーティング、コミュニティが決める、個人の自由に、革新といったものです。
ここでいくつもの治療法が暖かく迎えられました。ヨーロッパからもたらされた民間伝統、産婆術、ネィティブアメリカンの癒しの伝統、医学のコントロールの及ばないカイロプラクティックやオステォパシーなどの新たな実験も行なわれました。心理療法を家族の偏見や恐怖感、中毒的な傾向、機械的な行動から自由になるための方法とみるフロイトとユングの見方は、この新しい文化の精神にとてもぴったりでした。さらに、対話と自由連想を強調することは、アメリカの民主主義の精神と合致し、ヨーロッパではなかった言葉でダイレクトに表現することを広める雰囲気を生み出しました。
アメリカで最初の精神分析家の一人である、トリガント・バローは、カール・ロジャースの最初の先生の一人でした。フロイトとユングに分析を受けたバローは、1900年代始めにヨーロッパから戻りました。彼はヨーロッパの権威主義が精神分析を汚していることに心を痛めていました。彼は新たな試みを始め、カウンセリングという仲間どうしで行うスタイルを見出しました。そのスタイルでは、セラピストの技量の必要性を認めながらも、患者を無力な子供として扱うのではなく、患者自身のうちにある大人の力を尊重するようにしました。
バローは特別な身体経験を強調しながら、仲間どうしでのグループカウンセリングの大切さを強調した最初の人でした。彼の精神はカール・ロジャース、ハリー・スタック・サリバン、ハインツ・コフート、ユージン・ジェンドリン他の数え切れない人々に影響を与え、多くの心理療法に広がっていきました。そうした人々は過去の歴史や中毒的なパターンのメカニズムからの自由を獲得する一つの方法として、心理療法を見ようとしていました。
けれども、この新しいヨーロッパの精神分析のアメリカ版においてさえも、古い道徳観や宗教から受け継いできた感情的な障害を追い出すには何十年もかかりました。心理療法は、「神経がおかしい」「病人」のためのものと見なされていました。人々が心理療法にかかることには、どこか恥ずかしさと秘密のにおいがしていました。心理療法家に相談したことのある人は、一般社会ではやっていけないと考えられてきました。しかし、心理療法は学校教育の必修科目のように見られてきました。大人になるためには避けて通れない問題をいかにして扱うか、家族やコミュニティとの関係をどう扱うか、子供をどう育てるか、鬱病や慢性病、近づく死とどうつきあうかを学ぶ機会なのです。
もちろん、危機的状況にある人に介入することは大切であり、心理療法はそうした分野で大切な役割をいつも果たしてきました。しかし、寿命が延び、より多くの人にとって宗教が人生の導き手の役をなさなくなってくるようになり、心理療法は健康で、社会でしっかりと役割を果たす大人になり、仕事をこなし、思いやりのある親になるための大切なサポートになっています。現代の心理療法家は、大学院卒業後の教育のようなもので、大人としての人生を歩む上で必要な基本的な道具を与える役割を果たす様になっています。
心理療法を医学や宗教とは違った独自のものとするなら、心理療法を効果的に実践するためのトレーニングをどのようにするかという問題が浮かんできます。アメリカの大学はヨーロッパの大学よりもずっと柔軟で、我々のカリキュラムはもっとも伝統的な大学でさえも新しい発見や研究に応じて常に変わりつづけています。そのため、どのようなトレーニングが必要かを色々と試行錯誤しながらより効果的な方法を見つけてきました。
たとえばサンフランシスコにある我々のプログラムに、ヨーロッパから入学してくる大学院生は、どうやって人とワークするかについて少しもトレーニングを受けた事がありません。彼らは歴史や文学や科学についての知的な知識や、心理療法を実践するうえで欠かせない精神病理学や発達心理学などの特定の分野については素晴らしい知識をもっています。しかし、そうした驚くべき知識をどうやって応用したら良いかをまったく知りません。
15年前にカリフォルニアの心理療法家の教育を取り締まる新しい法律を制定する3人の学者の一人に選ばれるました。抽象的な実験心理学、臨床心理学の分野の抽象的なテーマに基づく伝統的な教育ではまったく十分でないことは、法律を制定する人やアカデミックな学者、公衆衛生の役人の間では周知の事実でした。必要とされていたのは、いわゆる人間の様々な特質を系統だって教育することでした。そうした特質とは、
「注意深く耳を傾ける」
「ノンバーバルな表現のニュアンスを観察する」
「臨床スーパーヴァイザーや同僚と正直にコミュニケーションを取る」
「暖かさと共感」
「違った人と違った風に関わり、そぐわないアイデアを手放す柔軟さをもつ」
「自分の投影や偏見に気付く」
心理療法家に相応しいトレーニングを立てる際に、広く抱かれている仮説があります。こうした人間の性質などは、教えられるものではない、そうした能力を得るには公の学校教育では達成できないという考えです。この仮説では、人は生まれつきそうした性質をもっているか、どうか決まっています。遺伝子や親や何か、教育というプロセスを越えた運しだいだというのです。けれども、アメリカの臨床心理学の発展や広がりがまさに、そうした仮説が誤っていることを示してきました。臨床心理学者は、しっかりした人間であるそうした能力を学ぶ方法を広く発展させてきました。こうした方法は、心理学の文献では広くはっきりと認められ、臨床的、教育的研究において確立され、同じものを作ることが可能になっています。そうした方法は、大学や臨床現場、トレーニングを提供する民間の研究所などで広く教えられています。 資格をもった心理療法家として実践するための教育として評判が良いと見なされるプログラムには必ず含まれています。
ヨーロッパや日本でも、数少ない民間の研究所以外では行なわれてない、こうした実践教育の必要性に気付いた、日本心理療法研究所の創設者に賛辞を送りたいと思います。 この講演も終わりに近づいてきました。この後コメントや質問を受け付けますが、我々がアメリカで、優れた力のある心理療法家を育てる際に大切なものと見なされてきた新しい要素を強調したいと思います。
ゲシュタルト療法、サイコドラマ、フォーカシング、POPといったアメリカで発達してきた心理療法の特定のアプローチを学ぶ素晴らしい機会が日本でもたくさんあると思います。このプロジェクトで強調したいのは、心理療法のある特定の学派ではありません。方法が何であれ基本となる人間の性質を育てることなのです。臨床を実践する上で、ユニークな出来事から学び、特定のクライアントに上手く行く事と行かない事を先輩や同僚と議論することができるように、柔軟で好奇心をもった精神を育むことです。
我々のトレーニングは次のような要素に焦点をあてています。
「直接はっきりと、正直に表現すること」
心理療法家の能力は、同僚や能力のある実践家と、実際のセラピーの流れについて、正直で直接的なコミュニケーションを行うことを通して高まって行くものです。これはたやすいことではありません。我々は自分の弱さをさらけ出すことを恐れます。継続的に学ぶための豊かな土壌なのです。自分の正直な気持ちや疑いを表すと、権威をもった人々から見下され、クリニックや学校での立場を失ってしまいさえすることを恐れる人もいるでしょう。良き心理療法家になるためのトレーニングにおいて、グループプロセスの果たす役割は、何もクライアントに使う技術を学ぶという問題ではなく、自らの心理療法の能力を継続的に改善しつづけるための基本なのです。
このプログラムで特に強調しているのは、同僚と真剣にコミュニケーションを交わすことができるようになることです。この長期間のプログラムを通して、お互いに意味のあるワークをしあい、臨床家としての満足のいくコミュニティを作り上げることです。
身振り、動作、呼吸のパターン、夢、気持ち、感情、といった言語にならない人格の基礎を強調します。これは、セラピストが何をすべきかを頭の中の考えにとらわれるのでなく、クライアントとよりその場にしっかりといられるようにすることを目指しています。魂の住み処としての身体とコミュニティでの学びを探ることです。
アメリカでは、こうしたノンバーバルな行動や表現の大切さについてのすばらしい研究が展開されてきました。子供の初期の発達についての有名な研究者ダニエル・スターンは、幼児が言語以前から言語行動へと移る重要な段階について議論しています。この言語以前の表現の様式とのつながりを、うまく維持できないまま大人になると、深刻な疎外感を感じます。
心理療法が成功するかどうかの鍵は、身体の記憶や感じと、成長してから身につける知的な概念とのつながりを、取り戻せるかどうかにかかっています。
心理療法の実践の中心は、生医学的精神医学と違い、セッションの際にセラピストとクライアントがお互いに実感する関係性に注意深く、システマティクに注意を向けることにあります。それは、共感的一体感の流れに目を向けることでもあります。これは理想的なセラピストの役割は、独立した観察者であるべきという古い考えに対する挑戦です。
トレーニングでは、クライアントとセラピストの間の共感的なつながりを育てると同時に、境界を保ち、力関係にも目を向けることを特に強調します。また特定のアプローチにしがみつくのではなく、それぞれのクライアントの必要性に応じて、変化できる柔軟性を育てる事も、重視します。
最後に、体験と言葉のギャップがあります。とても個人的な体験から、それについて話すことへと一気に移ることは、危険なことです。できあがった文句や、自分以外の専門家の考えに頼ってしまうと、何が正しいかよりも他人を喜ばせることを優先させてしまいます。心理療法のプロセスが素晴らしいのは、人々がペースを落とし、自分を大切にすることを学び、自分が何をしたいと感じているかに注意して言葉を選べるようになることです。頭で考えたり、言葉にすることを急ぐと、表面的になってしまいます。その一方で、体験の領域に浸ったままで言葉にすることを怠ると、せっかくのノンバーバルな智恵をより広い世界の人々と分かち合うことが、できず、また偽りや適当でない概念に立ち向かうことができなくなります。
我々のトレーニングでは、心理療法家が注意深く体験の根本に根ざした言葉を発することを学びます。それにより、クライアントも同じことができるよう、また同僚やスーパーヴァイザーとの意味の有る関わりを持ち、能力を磨けるるようにします。
講演を締めくくるに当たり、このプロジェクトに関わることで、どれほど心を動かされてきたかについて、一言述べたいと思います。
日米双方の多くの方々が、たいへんな熱意と関心、すばらしい意志を示してくださりました。このプロジェクトを生み出した人々だけでなく、多くの心理学者や学者、一般の人々が関心をもって、理想に向かって挑戦されています。魂の危機に直面している時代にあって、この熱い反応は、とても勇気付けられるものです。私が魂と言う言葉で何を言わんとしているかについて、おそらくみなさんはアメリカ人よりも良くお分かりになっていると思います。魂とは個人の問題ではなく、全体性とのつながりであり、直感や、想像力、愛が位置する座です。森林が伐採され、水や空気が汚される時、魂は危機に陥ります。
我々の国々が、巨大なホテルに明かりを灯し、大きな車を乗り回すために大量の石油を必要とする、そのことが、先住民の古き文化を破壊することにつながっています。こうした暗い時代に、我々の共通の人間性を守る為に手を握り、人間の魂のために戦うことが必要とされているのです。 |
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